世界を生むとき
−子供部屋のおばけ−
「ですから、あなたがこの世界を生んだんですよ」
男の言葉は、エナにとってまさに寝耳に水だった。
呆気にとられた彼女の立つ薄暗い路地を、小さなネズミがかさかさと通りすぎていく。埃とカビの匂いが立ちこめたここが、エナは昔から大嫌いだった。
(だからこんなところにくるのはイヤだったのに)
しかし、男の側に寄ったのはエナの方だ。いくら行き倒れていたとはいえ、近づくべきではなかった。今更ながら、エナは自分のおせっかい癖を悔やんでならない。
少しひいているエナに気づく様子もなく、男は言葉を続ける。
「よかった、あなたがナツカワに見つかる前で! ナツカワに出会っていたら、あなたは今頃……ああ、考えるだけでも恐ろしい」
男は身震いをして、きらきらとした眼差しでエナを見つめた。エナはされるがままに、男に肩をつかまれる。抵抗しようと思えばできたのかもしれない。けれどエナはそうしなかった。あまりにも特殊な状況に脅えていただけかもしれない。が、ともかく足がいうことを聞かなかった。
予想に反して、男は整った顔立ちをしていた。浮浪者、というとどうしても汚らしい中年男性を思い浮かべてしまうのは、エナだけでは無いはずだ。少しばかりたれ目がちではあったものの、エナはどこか懐かしさにも似た安心を彼に覚えた。浮浪者にしては、きっちりとした灰色のスーツやしっかりと整えた髪は、どこかの青年実業家といった風体でもある。年は今年で十三歳になるエナよりも、ひとまわりは年上だろうか。
「それでは、行きましょうか」
エナはびっくりして男の顔を見た。いきなり手を掴んできたのだ!
エナはたまらなく男の手のひらに思い切り噛みつく。
「つっ!」
男が怯み手を放した隙に、エナは全力で逃げた。
よく整備されたコンクリートの床は、土よりも走りやすい。
「あ、」
叫びはしたものの、男は追ってこなかった。
けれどエナは男が見えなくなっても全力疾走で町を走り抜けた。
「あら、早かったわね。おとうふは?」
家に着くなり、志津子さんがそう言った。
いつにもなくきれいな玄関。嫌な予感がしたけれど、エナは目も合わせずにすぐに走って部屋へと向かう。
「エナ? どうしたのかしら……、変なコ」
部屋に入ると、大量のパズルにあふれていた。そしてその真ん中にタクロウがいた。
ようやくほっとしたエナは、パズルを押し退けてその場に座る。
「ン? あれ、路地んとこの豆腐買いに行ったんじゃないの?」
あの路地のことは、今一番思い出したくないっていうのに。
エナがムッとした顔になると、タクロウは何が面白いのかくすくすと笑った。
「何だよ、何かあったのか? 母さんがまた何か言ったのか?」
エナはぷるぷると首を振る。
「変質者にでもあったのか?」
エナは勢いよくうなずいた。
「何だと! 大丈夫……だったんだよな。畜生! そうだって分かってれば……。ごめんな。俺もこの足さえきちんと動けば。でも……よかった、何もなくて。今度からは、俺が豆腐買いに行くことにするよ。エナをこれ以上危険な目には合わせらんないからな」
エナは眉を寄せ、再び首を横に振った。気持ちは嬉しいのだけれど、タクロウにそんなことをさせるわけにはいかない。
志津子さんは、なぜかタクロウをこの子供部屋から一歩も出したがらない。それどころか、はじめから彼はいないかのようにエナに接する。
――血を分けた自分の息子なのに。
エナが志津子さんを「お母さん」と呼ばなくなってどれ位たつだろう。
とにかく、エナは家族というものが大嫌いだった。
「じゃあ、俺のことも嫌いなのか?」
タクロウがそう言ったこともあった。けれどエナにとって、タクロウは例外だった。
エナはタクロウが大好きだ。
足は包帯だらけで動くことができない、一滴も血の繋がらない年子の弟が。
包帯を取ると、そこからは酷くただれたやけどの跡が現れる。タクロウは気持ち悪いだけだろう、と言ってあまり見せてくれないけれど、エナはそれが大好きだった。頬をよせると、ぼこぼことして黒ずんだ焼けた肌の感触がし、タクロウが確かにここにいるんだと実感できるからかもしれない。とにかく、タクロウのいない世界はエナにとって無意味なものだ。
(大丈夫、タクロウは何があっても私が守るからね)
タクロウは澄んだ茶色の目でエナを見ると、きょとんと首を傾げた。
「ねえ、あなた。エナのことなんだけど」
夜中、喉が乾き、台所に向かう途中のことだった。ふと聞こえた志津子さんの声に、エナは思わず立ち止まり、耳を傾けた。
どうやら、扉の中には志津子さんともう一人、「三番目の男」がいるようだ。エナは志津子さんの夫をいつも「〜番目の男」と呼ぶ。何のことはない、タクロウ曰く、志津子さんはインランなのだ。エナにはよく言葉の意味が分からないけれど、タクロウはよくそう言っている。タクロウは幼い割に、沢山の難しい言葉を知っているのだ。
部屋の中からは三番目の男の低いぼそぼそとした声が聞こえる。
「なんだ?」
「最近、変なのよ」
「? エナが変わった子供なのは昔からだろう」
「それもそうだけど……でも、おかしすぎるわ」
「別にいいじゃないか、餓鬼の話なんか。それより」
ぎしっと、ベッドの軋む音が聞こえ、すぐに志津子さんのあられもない声が響く。
エナは嫌悪感から吐き気を覚え、手のひらで耳を塞ぐと、子供部屋へと向かった。
志津子さんはピンク色が好きだ。
何かあるごとに、エナにピンク色の服ばかり着せたがる。
でも、エナはピンク色は大嫌いだった。
狂暴な程に甘ったるくて、「少女」を連想させる、その色が。
半年前のことだった。
志津子さんはエナの手を引いて、大きなデパートへ行った。それから、淡いピンク色の服ばかり、大量に買ってくれた。
エナはちっとも嬉しくなかった。
志津子さんはガラス細工が好きだ。
エナたちの部屋にも、志津子さんが買ってきたガラスの置物がいくつかある。
でも、エナはガラスは大嫌いだった。
壊れやすくて、どこまでも透明で、光を受けてきらきら光る、その偽善の匂いが。
志津子さんはどこかへ出かけるたびに、ガラス製品を買ってくる。それはグラスだったり、動物をかたどったものだったり、オルゴールだったり……。
けれどエナはちっとも嬉しくなかった。
志津子さんは甘いものも好きだ。
でも、エナは甘いものは大嫌い……。
けれど、そんな志津子さんとエナが共通して愛したもの、それがタクロウだった。
タクロウが「死んだ」日のことを、エナはよく覚えている。
冬の終わりの、よく晴れた日のことだった。
その日、タクロウはあの裏路地にある秘密基地で、友達と遊んでいた。秘密基地とは言うものの、ダンボールを積み上げただけのお粗末な作りのものだ。けれどタクロウにとってはお気に入りの場所だったらしく、よくエナや志津子さんに内緒で夜の間に抜け出して、そこで寝泊まりすることもあった。朝になる頃には帰ってきていたけれど、志津子さんはとうとう最後の最後までそんなことは知らなかった。エナは同じ部屋で生活していたから、嫌でもタクロウが抜け出したのは分かっていたけれど。でも、タクロウはエナにも知られたくはなかったみたいだった。だからエナも知らないふりをしていた。
そう、その日の夜も、気づいたらタクロウは子供部屋に居なかった。エナはどうせいつものことだと、あまり気にも止めて居なかったのだけど。
けれど、タクロウは朝になっても帰ってこなかった。
その日の夜になっても、次の日になっても……。
三日目の朝に、タクロウは秘密基地のあった辺りで死体となって発見された。
乾燥した空気のせいで、火が周りやすくなっていたんだろう、後で消防士の人が言っていた。
近所の高校生の焚き火の不始末。そんなもののせいでタクロウは「死んだ」。
けれど、不思議と恨む気持ちはない。
だって、その日からタクロウはエナだけのものになったのだから。
「エナなんかどっかいっちまえ」
そんな可愛くないことを言うタクロウは、もうここにはいない。
「エナ、どうかしたのか?」
子供部屋に戻ると、電気が付いていた。そしてタクロウが心配そうに顔を上げる。
ちょっと水が飲みたかっただけだから大丈夫。言葉にはしなかったけれど、手をひらひらと動かすと、タクロウはそれを理解したようだった。
「馬鹿だなあ、夏はどうしたって喉が乾くものだろ? 寝る前に水差しに水を入れておけばよかったのに」
タクロウは笑った。
そういわれてみれば、そうだ。
エナは怒るでもなく、しみじみと納得した。
|